長唄「鷺娘」
長唄の「鷺娘」は舞踊会では多々上演され、お馴染みの演目ですが、どんな事がその裏にあるのか?今回は推理と分析をもって「鷺娘」を考えていきたいと思います。
「鷺娘」は宝暦12年(1762年)四月、江戸市村座で二代目瀬川菊之丞によって初演された作品であります。
まず二代目瀬川菊之丞は何故「鷺娘」を作ったのか?を考えてみると、「鷺娘」が出来る9年前、宝暦3年(1753年)三月、江戸中村座では初代中村富十郎が踊って大評判を取ったと言われている「京鹿子娘道成寺」が上演されました。二代目瀬川菊之丞は当時名女形だと言われていた役者であったので、おそらく「京鹿子娘道成寺」も踊っていたに違いないと思います。しかし代表作品は「鷺娘」しか今日まで残っていない。二代目瀬川菊之丞は非常に美しい女形であったが菊之丞の踊る道成寺は、初代中村富十郎が踊る道成寺より地味で華がなかったのではないだろうか?そこで富十郎の「京鹿子娘道成寺」に対抗する作品を作りたいと思い、「鷺娘」を作ったのではないだろうか…
両方を比較してみると面白いことがわかって来ます。赤を基調とした「京鹿子娘道成寺」に対し、白を基調にした「鷺娘」、作詞・作曲に関してみれば、「京鹿子娘道成寺」は初代杵屋弥三郎と杵屋作十郎の二人が作曲している。一方の「鷺娘」をみれば作詞は不詳とあるが「日本舞踊辞典」「歌舞伎手帖(渡辺保氏著)」によれば濠越二三治、作曲は富士田吉次と杵屋忠次郎の二人で作曲しているということも何か意味があるのではないか…。富士田吉次と杵屋作十郎は明和5年(1768年)11月に江戸市村座で九代目市村羽左衛門と吾妻富士蔵によって初演された「吉原雀」を一緒に作曲している。共に知り合いであったに違いないと思います。
現在「京鹿子娘道成寺」の幕切れは、鐘の上に上がり見得をきっているのに対し、「鷺娘」は二段の上に上がって幕が下りるというのも面白い類以である。
現在「鷺娘」の幕開きは、傘をさし白無垢の娘が綿帽子を被り立たずむ、これは花嫁を連想させる姿であり、この説明は全く資料に見られることがありません。昔テレビがまだなくラジオドラマとして放送していた時代、長谷川幸延という作家が大阪の鷺堀をテーマに「ある武士の家でお家騒動が起こり、若君の御輿入れを反対する一派が、花嫁道中の通る堀端に刺客を配し花嫁を殺めようとするが、それを知った家の者が、花嫁を違う道から送り、たまたまその刻限に商家の娘の花嫁行列が通り、間違って殺されてしまう、訳も分からずに殺された娘は、花嫁姿でその堀端に現れ、その姿は白鷺のように美しかった…」という物語を私は聞いたことがある(僅かな記憶を思い出す…)これもまた「鷺娘」を思い出される物語であります。
「鷺娘」は250年程の間に、いろんな役者がいろいろな形で上演し現在も上演されていますが、二代目瀬川菊之丞がもし「京鹿子娘道成寺」に対抗して作ったものであったとしても、250年間踊り続けられる作品になったのは、二代目瀬川菊之丞の功績であり立派な役者であったと思われます。
「京鹿子娘道成寺」と「鷺娘」全く違う作品ではありますが、対比し推理して、作品を追及するのも面白い事であると思います。
「鷺娘」を踊る技法は、ここでは表せず「おどり塾」の実技で伝えていますが、私たち舞踊家は作品をいろんな角度から見て、面白さを伝えて行かなければ行けないと思います。
(文責・初代芳瞠宣州)